なぜ「認知症対策」が相続対策の大前提なのか

相続の準備というと、「遺言を書く」「生前贈与をする」「相続税を試算する」といったことを思い浮かべる方が多いと思います。しかし、これらすべてに共通する大前提があります。それは、ご本人にしっかりとした判断能力があることでございます。遺言も、贈与も、不動産の売買も、預金の引き出しも、すべては「本人が自分の意思で行う法律行為」です。その意思を支える判断能力が失われてしまえば、これらの行為は原則としてできなくなります。

認知症は、その判断能力を少しずつ、あるいは急に奪っていきます。そして恐ろしいのは、「相続対策をしよう」と家族が動き出したときには、すでにご本人の判断能力が低下していて、もう何も手を打てないというケースが非常に多いことです。遺言を書こうにも書けない、自宅を売って介護費用にあてようにも売れない、節税のための贈与もできない――対策の「入り口」そのものが閉ざされてしまうのでございます。

相続対策は「元気なうち」にしかできない

遺言・贈与・不動産活用・節税といった相続対策は、いずれもご本人に判断能力があるうちにしか実行できません。だからこそ、認知症への備えは「すべての相続対策の土台」であり、もっとも早く着手すべきテーマなのです。「まだ元気だから」ではなく、「元気な今だからこそ」備えるという発想の転換が必要でございます。

[本記事の前提知識について]
本記事は、認知症に備える生前対策としての成年後見制度と家族信託に絞って解説いたします。判断能力があるうちに作っておきたい遺言については「公正証書遺言の作り方」、元気なうちの財産移転については「生前贈与の「7年ルール」完全ガイド」もあわせてご覧くださいませ。

認知症で判断能力を失うと「できなくなること」

ご本人が認知症などで判断能力を失うと、具体的に何ができなくなるのでしょうか。代表的なものを挙げます。これらが、いわゆる「資産凍結」の正体でございます。

場面 できなくなること
預貯金 本人名義の預金の引き出し・定期預金の解約。金融機関が認知症を把握すると口座が事実上凍結される
不動産 自宅や土地の売却・賃貸・担保設定。介護費用のために自宅を売る、といったことができない
遺言 新たに遺言を書くこと・書き直すこと。判断能力を失った後の遺言は無効になりうる
生前贈与 子や孫への贈与。節税のための計画的な贈与ができなくなる
遺産分割 本人が相続人の立場でも、遺産分割協議に参加できない(協議そのものが進められない)
各種契約 介護施設の入所契約、保険の手続き、リフォーム契約などの法律行為

とくに見落とされがちなのが、「親が相続人になっている相続」でございます。たとえば父が亡くなり、母と子が相続人になったとき、その母が認知症で判断能力を失っていると、母を含めた遺産分割協議ができません。結果として、父の遺産も動かせなくなってしまうのです。認知症は、本人の財産だけでなく、家族全体の相続を止めてしまうことがあるのでございます。

備えの2本柱――成年後見制度と家族信託

認知症による資産凍結に備える方法は、大きく2つあります。成年後見制度家族信託でございます。それぞれ目的と性格が異なり、どちらが適しているかはご家庭の事情によって変わります。

公的な制度 成年後見制度
(法定後見・任意後見)
契約による備え 家族信託
(民事信託)

大まかに言えば、成年後見制度は「本人を保護する」ための公的な制度で、判断能力が低下した後でも使えますが、財産の自由な活用には制約があります。一方家族信託は「財産の管理・承継を柔軟に設計する」ための契約で、判断能力があるうちに準備する必要がありますが、認知症後も家族が財産を動かし続けられます。次章から、それぞれを詳しく見てまいります。

成年後見制度①――法定後見(後見・保佐・補助)

成年後見制度は、判断能力が不十分な方を法律的に保護・支援する制度で、大きく「法定後見」と「任意後見」に分かれます。まず法定後見は、すでに判断能力が低下してしまった後に、家庭裁判所に申し立てて利用する制度でございます。

家庭裁判所が、本人の判断能力の程度に応じて、支援する人(成年後見人・保佐人・補助人)を選任します。判断能力の程度によって、次の3つの類型に分かれます。

類型 対象(判断能力) 支援する人
後見 判断能力を欠くのが通常の状態 成年後見人
保佐 判断能力が著しく不十分 保佐人
補助 判断能力が不十分 補助人

もっとも判断能力の低下が進んだ「後見」では、成年後見人が本人に代わって財産管理や契約などを行い、本人がした不利益な契約を取り消すこともできます。誰が後見人になるかは家庭裁判所が決め、家族が選ばれるとは限りません。近年は、弁護士・司法書士・社会福祉士などの専門職が選任されるケースが多くなっています。

[法定後見は「判断能力が低下してから」の制度]
法定後見は、すでに認知症などで判断能力が低下した後のセーフティネットです。「もっと早く備えておけばよかった」という事態になったときの最後の受け皿ともいえます。ただし、後述するように財産活用には大きな制約があるため、できれば判断能力があるうちに、任意後見や家族信託で備えておくほうが望ましいとされています。

成年後見制度②――任意後見(元気なうちに自分で選ぶ)

任意後見は、判断能力があるうちに、将来に備えて「自分が信頼する人」を後見人(任意後見人)として選び、あらかじめ契約しておく制度でございます(任意後見契約に関する法律)。法定後見が「判断能力が低下した後」の制度であるのに対し、任意後見は「元気なうちに自分の意思で準備する」点が大きく異なります。

任意後見の流れ

  1. 判断能力があるうちに任意後見契約を結ぶ 誰に、どこまでの代理権を与えるかを自分で決め、公証人が作成する公正証書で契約します。
  2. 判断能力が低下したら、家庭裁判所に申し立てる 本人の判断能力が低下したら、家庭裁判所に任意後見監督人の選任を申し立てます。
  3. 任意後見監督人が選任され、効力が発生する 家庭裁判所が任意後見監督人を選任すると、任意後見契約の効力が生じ、任意後見人が本人を支援します。監督人が後見人を監督します。

任意後見の利点は、後見人を自分で選べること、そして支援してほしい内容をあらかじめ決められることです。「この子に任せたい」「この財産はこう扱ってほしい」という本人の意思を、ある程度反映できます。ただし、任意後見でも財産の積極的な活用(投資・贈与など)には制約があり、また任意後見監督人への報酬が継続的に発生します。

成年後見の注意点――財産は「守る」のが原則、報酬も続く

成年後見制度は、認知症の方を守るための大切な制度ですが、相続対策の観点からは、知っておくべき注意点がいくつかございます。

「後見が始まると、相続対策はほぼ止まる」

これがもっとも重要な点でございます。成年後見(とくに法定後見)が始まると、本人の財産は「守る」モードに切り替わり、生前贈与や資産の組み替えといった相続対策は、原則としてできなくなります。だからこそ、相続対策まで視野に入れるなら、判断能力があるうちに、任意後見や次章の家族信託で柔軟な備えをしておくことが重要なのでございます。

家族信託とは――信頼できる家族に財産を託すしくみ

家族信託(民事信託)は、信託法に基づき、財産を持つ人(委託者)が、信頼できる家族(受託者)に財産を託し、決められた目的に従って管理・処分してもらうしくみでございます。近年、認知症対策として急速に注目を集めています。登場人物は次の3者です。

役割 内容 典型例
委託者 財産を託す人(もとの所有者)
受託者 財産を預かり管理・処分する人
受益者 財産から生じる利益を受け取る人 親本人(自益信託)

たとえば、父(委託者)が自宅と預貯金の一部を、長男(受託者)に信託し、その利益は父自身(受益者)が受け取る、という形が典型です。こうしておくと、父が認知症になっても、長男が信託契約に基づいて自宅を売ったり、預けた財産を父の介護費用にあてたりできるのでございます。財産の名義は受託者である長男に移りますが、あくまで「父のために管理する」立場であり、長男が自由に使えるわけではありません。

[「自益信託」なら贈与税はかからない]
委託者(父)と受益者(父)が同じ「自益信託」の形であれば、財産の実質的な利益は父のままなので、信託を設定しても贈与税はかかりません。家族信託は名義こそ受託者に移りますが、利益を受けるのは引き続き本人ですので、節税のための制度ではない点にご注意ください(節税効果は基本的にありません)。

家族信託でできること・注意点

家族信託でできること

家族信託の注意点

成年後見と家族信託、どう使い分けるか

成年後見制度と家族信託は、対立するものではなく、目的に応じて使い分け、ときには併用するものでございます。主な違いを一覧で整理いたします。

項目 成年後見制度 家族信託
始められる時期 法定後見は判断能力低下後も可
任意後見は元気なうちに契約
判断能力があるうちのみ
財産の活用 保護・維持が原則(積極運用は不可) 柔軟な管理・処分が可能
身上保護 できる(介護・施設契約など) できない(財産管理のみ)
承継先の指定 できない できる(受益者連続)
継続的な費用 専門職への報酬が続くことが多い 基本的に継続報酬なし
裁判所の関与 あり 原則なし

「財産の柔軟な管理・承継」は信託、「身上保護」は後見

大まかな使い分けの目安は、自宅の売却や資産の組み替え・承継先の指定など「財産まわりを柔軟に」したいなら家族信託介護施設の契約や本人の身の回りの保護といった「身上保護」が必要なら成年後見でございます。実際には、財産は家族信託で管理しつつ、身上保護のために任意後見も併用する、という組み合わせが有効なケースも少なくありません。どちらか一方ではなく、ご家庭の状況に合わせて最適な組み合わせを考えることが大切です。

認知症対策をめぐる7つの落とし穴

当センターのご相談現場で、実際によく見かける認知症対策をめぐる誤解と失敗を、7つに整理いたしました。

  1. 「まだ元気だから」と先延ばしにする 遺言・贈与・家族信託・任意後見は、すべて判断能力があるうちにしかできません。「元気な今」が唯一のチャンス。先延ばしが、対策の入り口そのものを閉ざします。
  2. 認知症が進んでから家族信託をしようとする 家族信託は契約なので、本人に判断能力がないと結べません。「いざ」となってからでは手遅れです。元気なうちの準備が前提です。
  3. 成年後見を使えば自由に財産を動かせると誤解する 成年後見は財産の「保護・維持」が原則で、生前贈与や積極的な資産運用・収益目的の売買は基本的にできません。相続対策は後見開始後ほぼ止まります。
  4. 「家族が当然に後見人になれる」と思い込む 法定後見では家庭裁判所が後見人を選任し、専門職が選ばれることもあります。家族を希望しても通るとは限りません。
  5. 家族信託に節税効果を期待する 家族信託は財産管理・承継のしくみであり、相続税・贈与税の節税効果は基本的にありません。節税は別途、贈与や各種特例で検討する必要があります。
  6. 親が認知症の状態で、相続の遺産分割を進めようとする 相続人の中に認知症で判断能力を欠く人がいると、その人を含めた遺産分割協議はできません。成年後見人を立てるなどの手続きが必要になり、相続全体が止まります。
  7. 身上保護まで家族信託でカバーできると考える 家族信託は財産管理のみで、介護施設の入所契約などの身上保護はできません。身上保護が必要なら成年後見(任意後見)との併用を検討します。
よくある相談事例
※以下の事例は架空のものであり、実在の個人・団体とは関係ありません。

「父が元気なうちに家族信託で備え、介護費用に困らなかったケース」

当センターには、対照的な2つのご相談がよく寄せられます。一つは「手遅れ」のご相談、もう一つは「備えていた」ご相談でございます。

まず手遅れのケース。80代の父を持つ長女Aさんは、父が認知症と診断された後にご相談に来られました。父名義の自宅を売って介護施設の費用にあてたいと考えていましたが、父にはすでに売買契約を結ぶ判断能力がなく、自宅を売ることができませんでした。預金口座も事実上凍結され、当面の費用を子世帯が立て替えるしかない状況に。結局、法定後見を申し立てましたが、選任された専門職後見人のもとでは「本人の居住用財産の売却」に家庭裁判所の許可が必要で、手続きにも時間がかかり、Aさんは「もっと早く知っていれば」と悔やまれていました。

一方、備えていたケース。70代の母を持つ長男Bさんは、母がまだお元気なうちに当センターへご相談に来られました。当センターでは提携の司法書士・専門家と連携し、母を委託者兼受益者、Bさんを受託者とする家族信託を設計。自宅と一定の預貯金を信託財産とし、「母の介護や生活のために必要なら、自宅を売却してよい」という内容にしました。その後、母が認知症を発症されましたが、Bさんは信託契約に基づいてスムーズに自宅を売却し、その資金で母を希望の介護施設に入所させることができました。「あのとき備えておいて本当によかった。母らしい暮らしを最後まで支えられた」とおっしゃってくださいました。同じ認知症でも、備えの有無で結末はまったく変わる――その典型でございます。

― 私たちから一言 ―

「認知症対策は、相続対策の『入り口』です」

私たちが相続のご相談を受けるなかで、もっとも多く、そしてもっとも切実なのが、この「認知症で何もできなくなってしまった」というご相談でございます。「親の介護費用のために自宅を売りたいのに売れない」「父の預金が下ろせず立て替えが続いている」「母が認知症で、亡くなった父の遺産分割が進まない」――こうしたご相談の多くは、あと少し早ければ、防げたものでした。

認知症対策の難しさは、「対策が必要になったときには、もう対策ができない」という点にあります。判断能力を失ってからでは、遺言も、贈与も、家族信託も、任意後見も結べません。残されるのは、財産活用に制約のある法定後見だけです。だからこそ、お伝えしたいのは「元気な今こそが、唯一にして最大のチャンス」ということでございます。

成年後見と家族信託は、どちらが優れているという話ではなく、ご家庭の状況や目的によって最適な選び方が変わります。財産を柔軟に管理・承継したいのか、身上保護が必要なのか、費用をどう考えるのか――考えるべき要素は多く、専門的な判断も必要です。当センターでは、提携の司法書士・弁護士・税理士と連携し、ご本人とご家族のお気持ちを丁寧に伺いながら、任意後見・家族信託・遺言を組み合わせた最適な備えをご提案しております。「うちの親はまだ元気だけれど、そろそろ考えたほうがいいだろうか」――そう感じられた今が、ご相談のベストタイミングでございます。お電話一本、LINEで結構です。どうぞお気軽にお声がけくださいませ。

一般社団法人相続なんでも相談センター 代表理事 宮野 宏樹

この記事のまとめ

  • 遺言・贈与・不動産活用・節税など相続対策はすべて「本人の判断能力」が前提。認知症対策はそのすべての大前提となる。
  • 認知症で判断能力を失うと、預金引き出し・不動産売却・遺言・生前贈与・遺産分割協議などが原則できなくなる(資産凍結)。
  • 備えの2本柱は成年後見制度(公的な保護の制度)と家族信託(柔軟な財産管理・承継の契約)。
  • 法定後見は判断能力が低下した後に家裁へ申し立てる制度。後見・保佐・補助の3類型があり、後見人は家裁が選ぶ(家族とは限らない)。
  • 任意後見は判断能力があるうちに自分で後見人を選び公正証書で契約する制度。判断能力低下後、家裁が監督人を選任して効力が発生する。
  • 成年後見は財産の「保護・維持」が原則で、生前贈与や積極運用はできず、専門職への報酬が継続することも。後見開始後は相続対策がほぼ止まる。
  • 家族信託は、委託者(親)が受託者(子)に財産を託し、受益者(親本人)のために管理・処分してもらうしくみ。認知症後も資産凍結を回避できる。
  • 家族信託は判断能力があるうちにしか契約できず、身上保護や節税はカバーしない。受益者連続による承継先指定が可能。
  • 使い分けの目安は「財産の柔軟な管理・承継」なら家族信託、「身上保護」なら成年後見。併用も有効。いずれも元気なうちの準備が鍵。

参考文献(一次情報)

※本記事は一般的な解説を目的としたものであり、個別の事情により取扱いが異なる場合がございます。成年後見制度・家族信託の利用可否や効果は、ご本人の状況・財産の内容により変わります。家族信託は税務・登記を含む専門的な設計が必要で、設計を誤ると意図した効果が得られないおそれがあります。実際のご検討にあたっては、必ず弁護士・司法書士・税理士などの専門家にご相談ください。本記事の内容は2026年5月時点の法令・制度に基づきます。最新の情報をご確認ください。

認知症に備える生前対策、ご相談ください

FREE CONSULTATION

家族信託の設計から、任意後見・成年後見の検討、遺言との組み合わせ、認知症後の各種手続きまで、
提携の司法書士・弁護士・税理士と連携してワンストップでお手伝いいたします。