相続放棄をしても「保存義務」が残ることがある
相続放棄をすると、民法939条により「はじめから相続人とならなかったもの」とみなされます。故人(被相続人)の借金などのマイナスの財産も、プラスの財産も、いっさい引き継がないことになります。相続放棄そのものの手続きや期限については、相続放棄の手続きと3か月の熟慮期間で詳しく解説しています。
ところが、ここで多くの方が誤解しがちなのが、「放棄すれば、その瞬間にすべての責任から解放される」という点です。実際には、放棄をした人が、実家などの相続財産を現に管理している(手元に置いている・住んでいるなど占有している)場合には、次にその財産を受け継ぐ人へ引き渡すまでの間、その財産を守る義務(保存義務)が残ります。これを定めているのが民法940条です。
2023年改正で「管理義務」から「保存義務」へ変わった
この民法940条は、2023年(令和5年)4月1日に施行された改正によって、内容が大きく整理されました。改正前と改正後で、義務のかたちがどう変わったのかを整理します。
| 比較 | 改正前(〜2023年3月31日) | 改正後(2023年4月1日〜) |
|---|---|---|
| 義務の内容 | 相続財産の「管理」を継続する趣旨で規定 | 相続財産の「保存」をする義務に絞られた |
| 義務を負う人 | 放棄した人(範囲があいまいで、占有していなくても義務を負うと読めた) | 放棄の時に「現に占有している」財産についてのみ |
| 注意の程度 | 自己の財産におけるのと同一の注意 | 自己の財産におけるのと同一の注意(この点は同じ) |
ポイントは大きく2つです。ひとつは、義務の中身が広い「管理」から、財産の現状を維持する「保存」へと絞られたこと。もうひとつは、義務を負う対象が「放棄の時に現に占有している」財産に限定されたことです。改正前は、遠方に住んでいて一度も触れたことのない財産についてまで義務を負うのか、範囲がはっきりせず、実務上の混乱がありました。改正はこの点を明確にしたものです。
条文の文言に即した整理
改正後の民法940条1項は、「相続の放棄をした者は、その放棄の時に相続財産に属する財産を現に占有しているときは、相続人又は相続財産の清算人に対して当該財産を引き渡すまでの間、自己の財産におけるのと同一の注意をもって、その財産を保存しなければならない」という趣旨の規定です。「現に占有しているとき」「引き渡すまで」「自己の財産と同一の注意」「保存」という4つのキーワードで押さえると分かりやすくなります。
義務を負うのは「現に占有している」人だけ
改正後の最大のポイントは、保存義務を負うのは「放棄の時に、その財産を現に占有している人」だけだという点です。「現に占有している」とは、おおまかに言えば、その財産を事実上、自分の支配下に置いている状態を指します。
→ 占有あり・義務あり
→ 占有ありうる
→ 占有なし・義務なし
たとえば、故人と同居していて、そのまま実家に住み続けているような場合は、現に占有していると考えられ、保存義務を負う可能性が高くなります。一方で、遠く離れて暮らし、故人の家や財産にいっさい関わっていなかった相続人が放棄する場合は、そもそも「現に占有」していないため、940条の保存義務は生じないと整理されます。
「自己の財産と同一の注意」とはどの程度か
940条が求める注意の程度は、「自己の財産におけるのと同一の注意」です。これは、自分自身の持ち物を扱うときと同じくらいの注意を払えばよい、という意味の基準です。
法律の世界では、他人の物を預かるときに求められる「善良な管理者の注意(善管注意義務)」という、より高い水準の基準もあります。しかし、放棄した人に求められるのは、それよりゆるやかな「自己の財産と同一の注意」です。つまり、ふだん自分の家や持ち物に対してしている程度の配慮をしていれば足りる、というイメージです。
「保存」であって「積極的な運用・処分」ではない
求められているのは、あくまで財産の現状を維持する「保存」です。放棄した人が、その財産を売却したり、大きく作り変えたり、私的に使ったりする権限はありません。むしろ、放棄した後に相続財産を勝手に処分・私的消費すると、「法定単純承認」とみなされて、相続放棄が認められなくなるおそれもあります。これについては法定単純承認とはで詳しく解説しています。
義務はいつ終わる――「引き渡すまで」の意味
保存義務は、永遠に続くわけではありません。条文は、義務が続く期間を「相続人又は相続財産の清算人に対して当該財産を引き渡すまでの間」と定めています。つまり、次にその財産を受け継ぐ人・管理する人へ引き渡せば、義務は終わるということです。
引き渡す相手は、条文上、①次に相続人となる人、または②相続財産の清算人です。たとえば、自分が放棄したことで別の親族が相続人になるなら、その人へ引き渡せば義務を終えられます。相続人が誰もいなくなってしまう場合には、次章で説明する相続財産清算人を選んでもらい、その人へ引き渡すことになります。
相続人が誰もいないとき――相続財産清算人の選任
相続人が全員放棄した、あるいはもともと相続人がいない、という場合には、相続財産を引き継ぐ人がいなくなり、保存義務を終わらせる「引き渡し先」が存在しないという状態になります。このようなときに使うのが、家庭裁判所に「相続財産清算人」を選任してもらう手続きです。
相続財産清算人は、残された相続財産を管理・清算し、債権者への支払いなどを行ったうえで、最終的に残った財産を国庫に帰属させる役割を担います(2023年4月の改正で、従来の「相続財産管理人」から名称・手続きが整理されました)。清算人へ財産を引き渡せば、放棄した人の保存義務は終わります。相続人がいないケース全体の流れは、相続人がいないとき――相続財産清算人・特別縁故者・国庫帰属のしくみで詳しく解説しています。
清算人の選任には「予納金」がかかることがある
相続財産清算人の選任を家庭裁判所に申し立てる際には、財産の内容によって数十万円程度の「予納金」を求められる場合があります。負担を避けたいからと放棄後の財産をそのまま放置すると、かえって保存義務や近隣トラブルのリスクが長引くこともあります。相続人全員が放棄しそうなケースでは、誰が・いつ・どう清算人選任まで進めるかを早めに専門家と相談しておくと安心です。金額や要件は家庭裁判所によって異なりますので、必ず管轄の裁判所でご確認ください。
放棄する前に知っておきたい実務の注意点
相続放棄を検討している方が、放棄後の保存義務に関して、あらかじめ押さえておきたいポイントを整理します。
放棄前後の「うっかり処分」に注意
放棄した後はもちろん、放棄する前であっても、相続財産を売ったり、私的に使ったり、捨てたりすると、「単純承認したもの」とみなされ、放棄ができなくなるおそれがあります。保存義務があるからといって、財産に手を加えてよいわけではありません。現状を維持することと、処分することは別だと意識してください。
火災保険・管理の実務も確認を
空き家となった実家などを現に占有している場合、火災保険の扱いや、最低限の見回りをどうするかも実務上の論点になります。放置による事故で責任を問われることのないよう、引き渡し先が決まるまでの間の管理を、誰がどう担うかを家族で話し合っておくとよいでしょう。
相続放棄・限定承認という選択肢の整理
そもそも「放棄すべきか」を考える段階では、プラスの財産の範囲でだけ債務を引き継ぐ限定承認という選択肢もあります。放棄が唯一の答えとは限りません。財産と債務の全体像を確認したうえで、放棄・限定承認・単純承認のどれが最も適切かを、専門家とともに検討することをおすすめします。
「放棄したのに実家の管理から解放されないケース」
Sさん(60代・女性)は、お父さまが遺した借金と古い実家を前に、相続放棄を選びました。Sさんはお父さまと同居しており、放棄後もその実家を現に管理している状態でした。「放棄したのだから、もう自分は関係ないはず」と考えていたところ、近隣から「庭木が伸びて隣家にかかっている」と連絡が入り、当センターにご相談にいらっしゃいました。
当センターでは、提携する司法書士と連携し、放棄をしても、現に占有している財産については、次に引き継ぐ人へ引き渡すまで保存義務が残る(民法940条)ことをご説明しました。Sさんのケースでは相続人が全員放棄する見込みだったため、相続財産清算人の選任を家庭裁判所に申し立て、清算人へ実家を引き渡すことで、保存義務を終わらせる方針をお伝えしました。
Sさんは「放棄すればすぐ終わりだと思っていました。引き渡し先を決めるまでが一区切りなのですね」とおっしゃいました。放棄の「その後」まで見据えて段取りを組むことの大切さがよく分かる事例です。放棄をお考えの方は、出口の手続きまで含めて専門家にご相談ください。
「相続放棄は『ゴール』ではなく『スタート』のこともあります」
相続放棄のご相談を受けていると、「放棄さえすれば、あとは何も関係ない」と思っておられる方が本当に多いと感じます。たしかに放棄をすれば借金は引き継ぎません。しかし、現に占有している実家などがある場合は、引き渡すまでの保存義務が残るという点は、意外なほど知られていません。
2023年の改正で、この義務は「現に占有しているときに限って、保存する義務」へと明確化されました。範囲がはっきりしたのは前進ですが、逆に言えば占有している人には、引き渡しまでの責任がはっきり残るということでもあります。相続人が全員放棄するようなケースでは、相続財産清算人の選任まで見据えておくことが、トラブルを避ける鍵になります。
当センターでは、提携する弁護士・司法書士などと連携し、放棄すべきかどうかの判断から、放棄後の保存義務・清算人選任まで、一貫して中立的にお手伝いしております。「実家に借金がある」「放棄した後の管理が不安」という方は、どうぞお早めにご相談ください。
相続放棄後の保存義務でよくある7つの落とし穴
当センターへのご相談や情報収集の中で見えてきた、相続放棄後の保存義務をめぐるよくある誤解と落とし穴を7つに整理いたしました。
- 「放棄すれば管理からも完全に解放される」と思う 現に占有している財産は、引き渡すまで保存義務が残ります。放棄=即・無関係ではありません。
- 占有していないのに義務があると思い込む 改正後は「放棄の時に現に占有している」財産だけが対象。遠方で関与していなければ940条の義務は生じません。
- 「保存」と「処分」を混同する 求められるのは現状維持の保存です。売却や私的消費は権限外で、法定単純承認とみなされ放棄が覆るおそれもあります。
- 義務の終わりを意識せず放置する 義務は「引き渡すまで」続きます。引き渡し先を決めずに空き家を放置すると、事故時に責任を問われかねません。
- 相続人全員が放棄した後の手続きを知らない 全員放棄で引き渡し先がなくなったら、相続財産清算人の選任が必要。放置しても義務は自動では消えません。
- 清算人選任の予納金や手間を軽く見る 清算人選任には予納金がかかることがあります。誰がいつ進めるかを、早めに家族・専門家で決めておきましょう。
- 改正前の古い情報のまま判断する 2023年4月改正で義務の範囲が変わりました。古い解説の「広い管理義務」を前提にすると判断を誤ります。
この記事のまとめ
- 相続放棄をすると「はじめから相続人でなかった」ことになるが、放棄後もすぐに全責任が消えるわけではない。
- 民法940条は、放棄の時に「現に占有している」相続財産を、引き渡すまで「自己の財産と同一の注意」で保存する義務を定める。
- 2023年4月施行の改正で、広い「管理義務」から「保存義務」へ、対象も「現に占有しているとき」に限定された。
- 義務を負うのは占有している人だけ。遠方で関与していなければ940条の義務は生じないと整理される。
- 義務は「次の相続人または相続財産清算人へ引き渡すまで」続く。全員放棄なら清算人の選任が必要になる。
- 保存はあくまで現状維持。処分・私的消費は法定単純承認とみなされ放棄が覆るおそれ。判断は専門家・裁判所で必ず確認を。
参考文献(一次情報)
- e-Gov法令検索「民法」(第940条・第939条) https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089
- 法務省「令和3年民法・不動産登記法改正、相続土地国庫帰属法について」 https://www.moj.go.jp/MINJI/minji05_00343.html
- 裁判所「相続の放棄の申述」 https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_11/index.html
- 裁判所「相続財産清算人の選任」 https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_15/index.html
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